「私、舞妓さんになる!!」と九州大分らからでてきたのは21年前の春。祇園には同期が6人いました。あまり多い年ではなかったのですが、なんと100%の生存率で翌年にはなんと6人とも舞妓さんデビューできた珍しい年。うちの同期はドライでベタベタ付き合うタイプではなく、とってもマイペースな仲間で、今も変わらず付き合っています。同期というのは友達ではなく、同志。学校のときのとは違う関係性が心地よくもありました。
3月の中学卒業後すぐにお世話になる屋形にはいり、住み込み生活がはじまるわけですが・・・着物もちゃんと着た事のない子たちを1年でお座敷に出られるようにするのは並大抵のことではなく、それはお姉さんもお母さんも、お師匠さんも根気のいることだったと思います。そして本人たちも。故郷も、育った環境もバラバラな私たち。預かってもらっている屋形のしきたりや、家風も大きく違う中でお互いを励ましあい、大きくなっていきました。
お世話になった「西村」さんでは、仕込みさんの当初は高下駄と半幅帯で。この下駄が嬉しくって!髪にはリボンのついたネットがお姉さんがお下がりで。着物も最初はお姉さんやお母さんが着せてくれますが、そのうちすぐ、一人で挑戦させられて・・・お稽古いく前に、見せにいって直してもらってちょっとずつ着られるようになる、そんな感じでした。ある意味ちゃんと着付けとして習っていないので、今でも自己流です。近年では着付け教室に行かないと着物は着られない風潮がありますが、ほんの100年前の普段着。難しく考えすぎのような気もします。もっと肩の力をぬいてお着物を着ていただけたら、着物文化が少しだけ広がるのに。手にもっている長細いものはお扇子入れ。仕込みさんのお稽古は、これだけを抱きかかえて門前のお稽古場に通うのでした。そうそう、一度6人のうち一人だけ100円のたまたま持っていたことがあって、お稽古帰りに缶ジュースを買ってビルの陰でみんなで飲んだことがありました。いっぱいのカケソバならに缶ジュース。これが帰ってから、こっぴどく怒られて・・・正直当時はなんでこんなことでここまで怒られるのかさっぱりわかりませんでしたが、今になれば有難い教えだったと思います。そして祇園町の情報網の速さに震えあがった事件でもありました。門前のお稽古場から家に帰るまでに、情報のほうが先に届く。それぐらい街全体が見守っているその、有難さと怖さを最初に知った甘露でほろ苦い、缶ジュースの思い出です(苦笑)。
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